コンサートホールのカレンダーが『第九』で埋め尽くされる季節がやってきました。
『第九』ことベートーヴェンの交響曲第9番はクラシックの不朽の名作として人々に大きなインパクトを与えていますが・・・
何を隠そう、私がクラシックにどっぷり浸かる最初の機会が『第九』でした。
クリスマス近づく年の瀬・・・
はじめて『第九』を聴いた時の感動を思い出しながら、『第九』との出会いを綴りたくなりました。
楽譜も読めない母がなぜ『第九』を知っているのか不思議だった
時は、私がピアノのレッスンを始める前の小学1年生当時にさかのぼります。
近所にピアノを習っていた友達がいて、彼女が弾くのを耳コピで覚えて好き勝手に弾いて楽しんでいました。
中でも特にお気に入りだったのが「よろこびのうた」。
”ミミファソ|ソファミレ|ドドレミ|ミレレ~♪”
『第九』のメロディーを簡単にアレンジしたその曲は、私にとって特別な1曲でした。
どうして、この曲は他の曲と違うのだろう?
どこが他の曲と違うのだろう・・・
そう思いながら弾いていると、母が言いました。
「あら、『第九』じゃないの !」
「ダイク?これは“よろこびのうた”だよ」
第九=ダイク=大工しか連想できなかった私が答えると、母は言いました。
「ベートーヴェンの交響曲に第九っていうのがあってその中にその歌が出てくるのよ」
母は、ベートーヴェンについて話してくれました。おじいちゃんやおばあちゃんが生まれるよりもずっと昔にドイツに生まれた人だということ、耳が聴こえないのに沢山の曲を遺した偉い音楽家だということ・・・
それを聞いて私はびっくりしました。
なぜなら母はピアノを弾くどころか、楽譜すら読めません。
外国に行ったこともなければ、ドイツ語どころか英語も話せません。
それなのに、なぜベートーヴェンや『第九』のことを知っているのか。
私が弾いた“よろこびのうた”が『第九』だというのはどういうことなのか。
耳が聴こえないのに作曲するってどういうことなのか・・・
何がなんだかわけがわからず、ポカンとしている私に母は言いました。
「年末には必ず『第九』をやるのよ。テレビでもやるから聴いてごらん」。
私は、ぜひとも聴かなければならないと意気込み、指折り数えてその日を待ちました。
はじめて聴く『第九』はウルトラセブンに似ていると思った
そして、その日がやって来ました。
テレビとは言え、オーケストラを見るのも聴くのも初めてです。
黒い服を着ていて難しい顔で並んでいるオーケストラの人たちと後ろに並ぶ沢山の合唱の人、その物々しい雰囲気にドキドキする中、『第九』は始まりました。
冒頭、テレビ番組『ウルトラセブン』の始まりの、絵の具をぐちゃぐちゃにかき混ぜたところに似ていると思いました。ちなみにウルトラセブンの始まりはこれです。
『ウルトラセブン』はすぐに輝かしい音楽になりますが、『第九』は怒りだしてびっくりしました。
何に怒っているのだろうと聴いていると、まるで『ウルトラセブン』のお決まりのストーリー「怪獣に街を破壊されて怒っているところ」みたいです。
けれど、ベートーヴェンはウルトラセブンを知っているはずはないし、どうして似ているのだろうと不思議でした。
”よろこびのうた”は『第九』とは全く違う曲だった
『第九』は、ずっと怒ったり、悲しんだり、戦ったり、泣いたりしています。
全然楽しそうではありません。
いつ、どうやって“よろこびのうた”が出てくるのか想像もつきません。
わけがわからなくて眠くなってきた頃に(本当に寝ていたかもしれない)「さあ始まるよ!」と母が言いました。
まるで“ウルトラの父”のように、1人の男の人が低い声で歌い始めたら、それまでやられっぱなしで怒ったり泣いたりしていたのが急に強くなったようでした。
ウルトラセブンがやってきて怪獣をやっつけようとしているみたいだと思う一方で、『第九』とウルトラセブンが似ているのがますます不思議でした。
そして始まった“歓喜の歌”は私が弾いている“よろこびのうた”とは全く違うものでした。
私の弾いている“よろこびのうた”は、穏やかでやさしい曲なのに、『第九』の“歓喜の歌”は、お祭りのように大騒ぎして、飛んだり跳ねたりしています。
“よろこびのうた”は子供用なんだと思い知らされてちょっぴり悲しくなりました。
当時、子供扱いされるのが何より嫌だった生意気な私・・・
ちょっぴりすねて悲しい気分で聴いていたら・・・
ウルトラセブンが宇宙を飛んでいるような音楽になってびっくりしました。
ベートーヴェンは宇宙を知っているのだろうか?
ベートーヴェンがウルトラセブンを知っているはずがないのに、どうしてウルトラセブンに似ていて宇宙を飛んでいるような音楽になるのだろう???
耳が聴こえないのにこんな凄い曲が書けるってベートーヴェンは何者なのだろう・・・
『第九』のスケールの大きさやベートーヴェンという人のことなど、7歳当時の私の理解の域を完全に超えていて、聴き終わった時には頭の中はぐちゃぐちゃでした。
母は、「年末には第九を聴かないとね~」などとニコニコしています。
大人にはわかって子供の私にはわからないのかと悔しくて拗ねたままその夜は眠りに落ちました。。。
『第九』に宇宙を感じたのが「音楽はミクロコスモス」の原体験でした
以来、私は青空見上げてはその向こうの宇宙に想いを馳せました。
星空を見ては銀河系のはるか向こうのウルトラセブンがいるというM78星雲のことを考え、天国にいるベートーヴェンのことを想いました。
考えているうちに、そもそも私がいるのは一体どこで、私は何なのか、宇宙って何なのか、世界って何なのか、何もかもがわからないことだらけになって、自分が融けてしまいそうな気がしました。
その疑問にはじめて光が差したのは、小学5年生くらいの時に谷川俊太郎『二十億光年の孤独』を読んだ時です。
自分と同じことを考える人がいるんだと思いましたが、嬉しいというより「ふ~ん・・・」という感じで、世界というのは所詮わからないことだらけで不思議なものなのだと悟りに近いことを感じたのを思い出します。
その後「音楽はミクロコスモス(小宇宙)である」というフレーズに出会った時に、ウルトラセブンと『第九』が似ている理由やベートーヴェンの音楽のまるで宇宙にいるような不思議な雰囲気を、妙に納得したな気がしました。
子供の時の体験は、その人の人生というか人格形成に大きな影響を与えるものですが・・・
『第九』をはじめて聴いた感動、
『第九』とウルトラセブンが似ていると思ったあの日は、
私の人生を決定つけた体験です。
音楽はミクロコスモスという私の原点になっています。