ピアノとの出会い|私とピアノvol.1

ピアノを弾き始めるきっかけは人それぞれ、
色んなドラマがあります。

私は、自分から好きで弾き始めました。

上手くなりたくて一生懸命練習したのに、
先生をかわる度に全く違うことを言われて戸惑い、
思うように弾けなくて本当に苦労しました。

いつまでも過去に囚われないために振り返って綴ってみようと思います。

第1回は ピアノとの出会いです。

♪この記事を書いた人
Yoko Ina

音楽&ピアノ、自然、読書とお茶時間をこよなく愛しています

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体育会系の両親

この親にしてこの子あり・・・

と言いますが、親の影響は絶大であることを歳を重ねるにつれ痛感します。

我が両親がどんな人だったかというと・・・

父は若い頃に体操のオリンピック候補選手で順天堂大学体操部創設者のひとりでした。

大学体育学部教員&体操部コーチという正真正銘体育会系の彼は、音楽とは全く無縁であるだけでなく”究極の音痴”でした。本物の音痴は100人に1人と言われますが、彼は本物の音痴です。私は父ほどの音痴を知りません。

彼は私がピアノに夢中になるのを誰よりも微妙な想いで見ていたことでしょう。

母は少女時代にクラシックバレエをやっていましたが「才能もお金もなくてあきらめた」そうです。私のピアノも「好きなことがあるのは結構なこと」という姿勢でそれ以上ではありませんでした。

もっぱら鑑賞専門で芸術全般を愛好していた彼女はよくFMのクラシック番組を流しながら家事をしていたのを覚えています。

私自身、40歳を過ぎてからクラシックバレエのレッスンを始めてわかったのですが、クラシックバレエって基本的に体育会系です。スポーツではなく芸術ですが、やっている人たちの気質は体育会系そのものです。

・・・ということで私の両親は2人とも体育会系、竹を割ったようにサバサバしていて気が強く、負けず嫌いで頑張り屋・・・それは私も受け継いでいますが、運動神経だけはどこかに置き忘れたようです。私はスポーツは全く苦手。走るのも遅く、体育の成績は他の教科に比べて凹、通知表をもらってくる度に両親を嘆かせていました。

そんな彼らが、私にピアノを習わせてくれたのは、「一生懸命やることで得られるものこそ人生の財産」という考えによります。

弾きたいように弾く《おもちゃ》としてピアノと出会う

ピアノと出会ったのは5歳の初夏、父に連れられて体育館に遊びに行った時でした。

片隅に置かれたグランドピアノに魅せられ、

「あ~、私はこれを弾くんだ・・・」

そう思ったのです。

その晩、「ピアノが欲しい・・・」と言ったら、ほどなくして古いオルガンが我が家にやってきました。

全然違うものが来たぞ?!とは思いましたが、指で鍵盤に触れると音が鳴るのが面白くて知っている歌が弾けるのが楽しくて、何時間でもオルガンの前で遊んでいました。

友達と『ピアノのおけいこ』が最初の先生

小学校に入り、音楽の授業で楽譜の読み方を覚え教科書の曲を弾くのが楽しみになりました。

友達にちょっとだけピアノを弾ける子がいて、彼女が弾くのを見聞きして両手で弾くことを覚えました。片手でメロディーを弾くだけでは物足りなくて、合う音を左手で探すようになり、鍵盤に触れるのがさらに楽しくなりました。

同じ頃に、NHKで当時放映されていた『ピアノのおけいこ』という番組を見つけ、テキストを買ってもらって番組を見ながら練習しました。

そのテキストには子供用のバロック・古典派・ロマン派・近現代・邦人作品まで色んな作品があって、誰にも教わることがなかっただけに《自分で感じる》ということに素直でした。

たとえば、

バルトークの『遊び』は戸外で土の香りの中での遊び。
カバレフスキーの『ワルツのように』はきれいなフロアの上で可愛いドレスと靴で踊る・・・

この感覚は音楽をやる上で最も大切なことだと、思います。

ベートーヴェンとの出会い

私がクラシック音楽に心底感動した最初の体験はベートーヴェンでした。

バイエル併用曲集の中の「よろこびのうた」を弾いていると、母が「あら、第九じゃないの?!」と声をあげたことがきっかけとなりその年末に「第九」全曲をテレビで聴きました。

TV番組『ウルトラセブン』のようなはじまりから宇宙を飛んでいるような第4楽章の合唱まで、その壮大な世界に衝撃を受け、私の中でベートーヴェンは一躍ヒーローになりました。

第九をはじめて聴いた日
コンサートホールのカレンダーが『第九』で埋め尽くされる季節がやってきました。 『第九』ことベートーヴェンの交響曲第9番はクラシックの不朽の名作として人々に大きなインパクトを与えていますが・・・ 何を隠そう、私がクラシックにどっぷり浸かる最初...

学校の図書館でベートーヴェンの伝記を見つけ、モーツアルト、バッハ、シューベルト、ショパン・・・音楽家たちの伝記を読んで感動しクラシック音楽の世界への憧れがふくらみました。。。

はじめての舞台は器楽合奏でした

初めて人前で演奏したのは、ピアノではなく器楽合奏。小学2年生の時、市の音楽祭に出演するメンバーに選ばれ、ワルトトイフェル『スケーターズワルツ』を演奏しました。

私は大太鼓を叩くことになったのですが、指導&指揮の先生に

「大太鼓は全体を決める一番大事なパートなの、しっかりお願いね」

と言われ、母にカラヤン指揮ベルリンフィルのSP(CDなんてない時代)を買ってもらい、テーブルを叩いて練習しました。

裏面がウェーバー『舞踏への勧誘』で「これは大人の音楽だな」とちょっぴり微妙だったのを思い出します。

小学5年生からは鼓笛隊でリコーダーや小太鼓などもやりました。

モーツアルトもベートーヴェンも作曲家であるだけでなく、ピアノやヴァイオリンを弾き指揮もしたというのを伝記で読んでいたので、私にとってはピアノをひとりで弾くことも、アンサンブルも等しく《音楽》でした。

3年生の時に念願のレッスン開始

ピアノのレッスンを始めたのは小学3年生の12月と、当時としても遅いスタートなのは、両親は私にピアノを弾かせたいとはこれっぽちも思っていなかったここと、とても田舎に住んでいたためそもそも近くにピアノ教室がなかったためです。

最初のレッスンで先生は、私が初めてレッスンを受けるのに楽譜が読めてブルグミュラー25練習曲の「素直な心」や「アラベスク」が弾けるのをびっくりしましたが、「バイエルからやりましょうね」ということで『子供のバイエル上巻』(赤バイエル)をいただきました。

「指を立てて、鍵盤の底までしっかり押さえて弾きましょうね」

と教わり、

「(バイエルは)弾けるところまで弾いてきてね」

と言われて、全部弾いていったら、すぐに「下巻』(黄バイエル)をいただき、また「弾けるところまで弾いてきてね」と言われ、59番までは意気揚々と弾いていたものの次の60番でつまづきました。

60番ってポリフォニーなんですよね。

それまで右手がメロディー、左手は伴奏の曲がほとんどだったのでこの曲は本当に苦労しました。

なかなか弾けるようにならないのが悔しくて、べそをかきながら弾いていたら、様子を察した母に

「泣きながら弾くならやめなさい!」

と怒られ、やめさせられたら大変と泣くのをやめて練習を続けました。

・・・その後どんなに辛い時にも、親には絶対に泣きごとを言わなかったのは、言えば、

「やめなさい」

で終わってしまうことがわかっていたからです。

モーツァルト『トルコ行進曲』を弾くことになったらピアノがやってきた

子供のおもちゃにピアノは高すぎると考えていた両親でしたが、5年生の時の発表会でモーツァルト『トルコ行進曲』を弾くことになったら、あっという間にアップライトピアノがやってきました。

「自分が変われば周囲が変わる」と言いますが、結果を出すことによって周囲が認めてくれた初めての体験として、(思い通りに行かない時にも)自分の信じるところに従うという私の原点になっています。

手が痛いのは指が弱いから?

私がレッスンを始めた1970年代、現代のように情報もなく、メソッドもお粗末で、ひたすら精神論&根性論でレッスンが行われていました。

弾けないは練習不足と怒られ、手を叩かれるのは日常茶飯事、レッスンの順番を待っている間に前の方が泣きながら弾いているのも毎度の光景。。。

難しいところは、どうやったら弾けるようになるのか教えてもらった記憶もなく、ひたすら鍵盤の底までしっかり押さえて強い音で弾くように言われ続け、頑張る日々・・・

チェルニー40番を弾くようになった小学6年生頃には、途中で手が痛くて最後まで弾きとおすのが難しくなっていました。

先生に

「手が痛い」

と言うと、

「指の力が弱いから痛くなる、指が鍛えられれば痛くなくなる」

と言われ、そうなのかな~と頑張る一方で痛くてとても弾け続けられない現実・・・何かおかしいんじゃないかと疑問を感じるようになった頃、父の仕事の都合で転居・転校、もれなくピアノの先生も替わることになりました。

ブラスバンド部でアルトサックスに夢中だった中学時代

先生を替わったら、指の体操やスケール&アルペジョなどの課題を沢山与えられ、どうやら私の弾き方はよくないらしいということはわかりましたが、それらの課題も何だかピンとこなくて興味がわかずピアノ熱が冷めかけた頃・・・

中学1年の冬にまたしても転居・転校、成り行きでブラスバンド部に入部することになりました。

ホントはフルートを吹きたかったのですが、「フルートはもういっぱいなの。アルトサックスが足りないからお願いね」と部長さんに言われ、アルトサックスがどんな楽器なのかも知らないままに「はい」と言って渡された大きな楽器に「えっ?!」と思いながらも練習を始めたら、これが楽しくて夢中になりました。

吹奏楽のレパートリーはポピュラー中心なので、コードネームや即興演奏の本を買って勉強したり、ピアノでも吹奏楽で演奏する曲を弾いてみたり・・・

自分の楽器アルトサックスだけでなく、他の楽器も吹いてみたり、木管アンサンブルもやり、熱心な部員たちと音楽三昧の楽しい毎日を過ごしていました。

ルビンシュタインの弾くショパンを聴いてピアノに舞い戻る

新しいピアノの先生を探すこともなくアルトサックスと吹奏楽に夢中になっていた中学2年の秋のある日、ふとルビンシュタインのスケルツォ・バラード全集を聴き、スケルツォ第2番が流れた時に、はたと我に返りました。

それは、小学6年生の夏に(地元の)子供たちが出演するピアノコンサートで高校生の男の子が弾いたその曲・・・

とりつかれたようなその演奏は、瞬きするのも息をするのも忘れてしまうような凄さで会場の空気が別世界になってしまったような不思議なものでした。

弾き終わったら、拍手がかき消されるほどのどよめきが起こり、隣の母も耳元で「凄かったね・・・」とささやきました。

音楽の威力、ピアノという楽器の可能性、ショパンのスケルツォ第2番という作品の世界の凄さ・・・ビフォー・アフターではないですが、それまでと世界が変わるほどの衝撃に、「ピアノを弾くってこういうことなんだ。私もこんな演奏がしたい!」と心に決めました。この時の経験は、演奏するとは心を動かすことだと、私の心に刻み込まれました。

・・・この時、そのことを思い出し、ピアノに舞い戻りました。

同じ頃に書店で偶然ピアノの奏法の本(天池 真佐雄『ピアノの弾き方』絶版)に出会いました。レッスンで習うことが全てではないと悟り、楽書やピアノ雑誌『ムジカノーヴァ』(今よりもずっと専門誌)を読むようになります。

ピアノ熱再燃したら悪い癖がついていたという現実が目の前に

吹奏楽部の活動は続けながらも、ピアノ熱再燃し、中学3年に進級すると新しい先生につくことになりました。

最初のレッスンで、チェルニー40番(多分16番)を弾いたらいきなり溜息をつかれ、こう言われました。

「チェルニー40番を弾いていてそんな音しか出ないとはね~・・・あなた、そんな(悪い癖のついた)手じゃ、今に何も弾けなくなるわよ」

「どうしたら治りますか?」

と私が聞いたら

「わかりません、自分で考えなさい」

との答えが返ってきました。

・・・現代ではとんでもない話です。さっさと先生を替わればいいのですが、当時は先生もそれほど沢山はいなかったし、奏法やメソッドもまだまだ発達途上で、こんなレッスンがまかり通っていました。

教えてもらえないなら自分で考える!

練習曲を弾くと手が痛い、オクターブが上手く弾けない・・・

その原因が、手首に力が入っている、指の形が悪いなど、悪い癖が原因だということがわかったものの、どうしたら治るのか先生は教えてくれない・・・

けれど、私はかつて聴いたショパンのスケルツォ第2番の強烈な印象と、ルビンシュタインの弾くショパンに、ピアノを弾きたいモードのスイッチはOnになってしまい、どうしても弾きたい、上手くなりたいと思ったので自分で考えることにしました。

先生を替わる度に言われることが違うなんておかしいし、習っているのに悪い癖がつくなんておかしい

・・・高校に入り、ピアノ奏法の本や楽書を片っ端から読み、寝ても覚めてもピアノの毎日でした。

弾きたいのに弾けない・・・必然だった最初の挫折へ続きます。

春は蝶々を、夏は蝉を追いかける少女時代でした。
(写真はイメージです)

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