・・・大学卒業と同時に演奏活動&レッスンに忙しい毎日を過ごし、子供の頃からの夢は叶ったようでした。
でも、速いパッセージが苦手、オクターブが怖い、手の痛みやアガリ症に悩み、フィンガートレーニングなど色んな勉強をするも、無理がたたって30代後半にはフォーカル・ジストニアを発症、全く弾けなくなってしまいました。
当時は(現在と違い)音楽家の手についての医学もまだまだ発展途上、ネットもようやく普及し始めた頃で情報も少なく本当に苦労しました。
再び弾けるようになるまでの軌跡を綴ります。
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アレクサンダー・テクニークに活路を見出す
指が動かないということは、演奏どころか、練習も全くできないということです。
ピアノを弾いているはずの時間なのに練習できない=時間が余る・・・
ぽっかりと空いた時間はそのまま心の穴で、どうしようもない虚無感に生きている意味さえ疑いたくなりました。
あんなに時間とエネルギー(&もれなくお金も)を費やしたのに、弾けなくなってしまったなんて私の人生は一体何だったのだろう・・・
負の感情は、確かにありました。
でも、過去を振り返っても仕方ありません。
ネガティブな感情が浮かんでも無視して、どうしたら弾けるようになるのか、それも、自分の思い通りに自由に弾くにはどうしたらいいのか、考え続けました。
弾きたくないから指は動かなくなった
そんなある日、銀座のYAMAHAで偶然見つけたアレクサンダー・テクニークの本は私にとってまさに福音でした。
指は動くようにできている!
と確信することができたのです。
弾けなくなったのは心のあり方や考え方と無関係ではないとも思いました。
つまり・・・
私は、指が動かなくなった頃、
心の底では弾きたくないと思っていたのです。
練習しても、練習しても、「もっと!もっと!」と求められる。
まるでマシンのように伴奏やイベントの仕事をこなし、コンクールやオーディションでの結果を求められるも、何をどうしたらいいのかわからないまま、ただ頑張れと言われ続ける・・・
音楽が好きだったはずなのに、
すっかり感動を忘れ、
ピアノが好きだったはずなのに、
弾くのが怖くなり、
ピアノは弾きたいものではなく、
弾かなければならないものになっていました。
ラットレースのような日々に疲れ果て、死ぬまで踊り続けなければならないアンデルセン童話《赤い靴》のカーレンのようだったのです。
身体と心を切り離すことなく、《セルフ》としてひとつのものとしてとらえる・・・
アレクサンダー・テクニークには解決の糸口があるに違いないと、小野ひとみ先生のレッスンを受けることにしました。
自分の中で決めてからやる
アレクサンダー・テクニークの核心は
インヒビション(Inhibition)
です。
(日本語では『抑制』と訳されますが、この訳語はあまり適切ではなく、インヒビションの概念を理解した方がいいです)
これは、ヴィクトール・フランクルの言う
刺激と反応の間には選択の自由がある
と同じ概念で、わかりやすく言うと、例えば、人から何か言われた時に、
言われたことを自分の中で検討・精査し、やると決めてから動く
です。
「やれ!」と言われて反射的に動くのではなく、自分の中でそれをやると決めてからやるということ。すなわち、やらないと決める選択肢もあるということです。
さらに、やると決めたら、どういう手順でやるのかを考え、納得してから動く。
アレクサンダー・テクニークは、自分という人間が主体的に自由に生きるために大切なことを教えてくれました。
クラシックバレエは演奏のヒントがいっぱい
月2回のレッスンを3年間続け、ピアノの演奏におけるアレクサンダー・テクニークの使い方も学び、さあ、これからどんどん練習できる!と手応えを感じた頃、小野ひとみ先生から
「私はここまでなの」
と言われました。それは、「あなたは卒業です」という意味でした。。。
アレクサンダー・テクニークのレッスンは、確かに私にとって有益でした。
でも、今ひとつ一番知りたいこと・身につけたいことに手が届かないもどかしさも感じていたので、この言葉に力を得て、次のステップへ踏み出すことにしました。
身体を動かすことを何かやろうと思ったのです。
ピアノは座って弾きます。練習は長時間座りっぱなしで運動不足が故障の一因であったことは十分自覚していました。
・・・が、子供の頃から運動が苦手だった私・・・
スポーツには興味がわかないし、スポーツジムにも行く気がしない・・・
ヨガにも興味湧かず、一体何をやったらいいのか考えあぐねていた時に浮かんだのがクラシック・バレエでした。
何をやっても下手くそだろう、だったら一番やりたいものをやろう。
バレエはただ身体を動かすだけじゃなくて音楽と踊るんだから・・・
調べてみると、大人の初心者のためのクラスが沢山あり、身体が硬くても大丈夫とあります。その言葉を信じて渋谷チャコットの入門クラスを受講することにしました。
週1回90分ほどのレッスンを始めてまず驚いたのは、バレエのレッスンはかなりハードで大人の初心者クラスでも結構スパルタだといういうこと。ピアノのレッスンをあんな調子でやったらあっという間に誰もいなくなるんじゃないかと思う厳しさです(実際3ヶ月のクラスが終わる頃には半分がいなくなっていました)。
チャコットでは色んなクラスを自由に受講できるので沢山の先生にお世話になりましたが、どの先生も趣味だからただ楽しければいという方はいらっしゃいませんでした。
ただ手足を振り回すだけではクラシックバレエじゃない!
クラシックバレエがなぜクラシックバレエなのか、基礎の大切さは譲れないという先生ばかりでした。レッスンは大変ですが、とても集中するので90分のレッスンが終わると、身も心もすっかりリフレッシュされます。本気でレッスンしてくださる先生方には本当に感謝しかありません。
肝心のレッスンですが、立ち方から始まり、腕の使い方や指先まで神経を行き届かせること、背中のこと、脚のターンアウトやつま先・・・など《クラシックバレエ》とは何たるかを丁寧に(容赦なく)レッスンしていただきましたが、中でも、どの先生も一番大事にしているのが、
お腹抜けない!
ということです。
《お腹》とは、いわゆる《丹田》・《センター》です。
お腹が抜けていたら何も始まらないということを強調されました。
振りが難しいと頭で考えてしまい、お腹が抜けるのですが、そうするとますます動けません。
クラシック・バレエのスタイルとして立つのも、
腕や足のポジションも各種ポーズも・・・
お腹が締まっていてこそ!ということを叩き込まれます。
そんな調子でバレエのレッスンを続けるうちに、ピアノの激しい動きも、指や手や腕だけでなく、もっと全身が大事なんじゃないかと思うようになり、座って演奏するピアノにどう活用したらいいのか試行錯誤を始めました。
毎週のバレエ・レッスンは、想定外にピアノ演奏の身体の使い方のヒントが満載でした。
やっぱり人前で弾きたい
3年間のブランクを経て、再び人前で演奏したのは41歳でした。
アレクサンダーテクニークのレッスンのおかげで指は練習できるくらいに動くようになり、練習を始めれば、やっぱり人前で弾きたくなります。
とは言え、いきなり以前のように仕事としての演奏や演奏会ができるわけではありません。
失敗しても誰にも迷惑がかからない場として、ピアノサークルの練習会などに参加しました。
・・・指は徐々に回復し、常に改善を実感できたものの、完全に支障なく動く状態ではなく、本番の緊張でさらに動かなくなることもありました。
けれど、さまざまな勉強を続け、練習を工夫し、やることをやれば何かしらの成果が必ず出たので、小さな進歩を喜び、地道な練習を続けました。
心折れそうになった時に届いたメッセージ
指の状態は、いつも改善され続けましたが、決して100%元通りの状態になることはありませんでした。
いつも善くなってはいるけれど、永遠に元通りにはならない・・・というのが5年くらい続き、疲れから諦めモードに陥ってきました。
指は自由になるという希望があったから地道な練習のモティベーションを保つことができましたが、そんな日は永遠に来ないのではないかと思うと自分のやっていることが全く無意味な気がしてきたのです。
そしてある日、練習会で目も当てられないほどボロボロになってしまいました。
それなりに練習して「これくらいは弾けるだろう」と想定していたのですが、あり得ないくらいにひどい出来にさすがに凹み、
もうピアノはやめよう。
ピアノを手放そう・・・
ピアノの練習に時間を費やすよりも、もっと有益な時間の使い方があるのではないかとまで思った時に、
夢をあきらめない
というメッセージが届きました。
このメッセージがなければ、この時、私は本当にピアノをやめていたかもしれません。
詳しくはこちら。
禅の思想と瞑想
万策尽きてもうピアノをやめようと思っていた時に受け取った
夢をあきらめない
というメッセージに、数日前に美容院で見ていた女性雑誌の新刊紹介のページにあった
小池龍之介著『考えない練習』
を思い出しました。
私はとにかく子供の頃から「考える人」で、人からも「考えすぎだよ・・・」と言われることが多いく、「考えない」という言葉に感じるものがありました。
著者の小池氏は(かなりユニークな)僧侶。考えているつもりが実は「脳内引きこもり」に陥っているので、「もっと感じよう」ということから『考えない練習』というタイトルになっています。
情報過多な現代社会で振り回されている現代人に、広く仏教・禅の思想や瞑想をすすめる内容です。
マリア幼稚園に通ったことでごく自然にキリスト教に出会い、キリスト教の影響を深く受けている私にはとても新鮮で、小池龍之介氏の著書をはじめ、禅の入門書なども集中的に読みました。
難しい教義よりも、瞑想それ自体に興味を持ちました。
瞑想に、何か怪しげな新興宗教を思い浮かべる向きもあるかもしれませんが、それは完全に誤解です。
瞑想の基本は、ただ自分の呼吸に意識を集中するというものです。
やってみればわかりますが、簡単そうで、とても難しいです。
呼吸に意識を向けているつもりでも、すぐに別のことを考え始めますし、色んなことが浮かんできます。それにすぐに気づいて呼吸に意識を戻せばいいのですが、気づかずに別のことを考え続けてしまいます。
それでも、諦めずに呼吸に意識を向け、ただ呼吸するということをやっていると自分の心をコントロールできるようになってきます。
心って、勝手に好きなことを考え続けるんですよね。
その中で、考える必要のあることを考え、どーでもいいことは無視するということができるようになってきます。
瞑想は、『考えない練習』に出会った2010年4月からずっと続けています。
1回数分とか、電車の中とか、ちょっとした隙間時間に呼吸に意識を向けるようにしていますが、効果は絶大です。
私の体感として、瞑想は心の掃除だと思っています。
部屋は放っておくとどんどん汚れますが、掃除をすればきれいになります。きれいをキープするためには定期的に掃除をすることです。
瞑想も掃除に似ていて、心は放っておくとどんどん色んな想いで散らかってしまうので、瞑想できれいにするのです。
瞑想についてはこちらもどうぞ。
レッスンでピアノや音楽の素晴らしさを教えてもらったことがなかった
瞑想を続け、私の故障と挫折がなぜ起こったのか、冷静に振り返ることができるようになりました。
結局のところ、
- 子供時代のレッスンで悪い癖がついてしまった。
- ピアノの奏法や効率的な練習方法を教えてもらったことがなく、ただ難しい曲を弾くことを求められ、根性と執念で無理やり頑張ったことで、心身に根深い問題が形成されてしまった。
- 弾けなかったり、ミスタッチをした時のレッスンでの先生の反応が怖く、だんだんと人前で弾くことが怖くなり、深刻なアガリを引き起こすに至った。
- コンクールなど大切な本番で本来の実力を発揮できなくなり、結果を出せないことでさらに追い詰められ、心身ともに疲弊して弾けなくなってしまった。
以上を整理すると、奏法とプレッシャーのふたつに集約されます。
- 奏法や練習の問題
悪い癖がついてしまったことが上達の大きな妨げになった。
練習方法を適切に教えてもらえなかったことで無理やり頑張った。 - いつもプレッシャーにさらされ、追い詰められていた
弾けないと怒られる、ミスタッチをすると怒られる。
コンクールなどで結果を出すことを求められるも応えられず、追い詰められた。
これは、
- 奏法=身体
- プレッシャー=心
と切り離せるものではありません。
適切な奏法が身についていれば、もっと楽に弾く事ができたでしょうし、練習方法を教えてもらえれば無理やり頑張る必要もなかったでしょう。
そうすれば、弾けないと怒られることもなく、ミスタッチもぐっと減ったことでしょうし、コンクールなどでももっとのびのび弾くことができたかもしれません。
そもそも、ピアノのレッスンでピアノの素晴らしさや作品の素晴らしさ、音楽の素晴らしさを教えてもらった記憶がありません。
弾けなかったり、ミスタッチをしたりするのはよくないとしても、その原因はやはり音楽そのものへの理解と決して無関係ではありません。
ピアノを演奏するとはどういうことなのか
そんな視点がレッスンにあれば、私が経験した苦労の大半は不要なものだったと振り返ります。
・・・けれど、私はかつてお世話になった先生方をを恨む気持ちはありません。
彼らはそうするしかなかったのでしょう。そもそも彼ら自身がもっと怖いレッスンを受けていたと聞いているからです。
だから、私は本当のことを教えるピアノの先生になりたいと思い、今もその気持ちに変わりなく日々研鑽を続けています。
それは、私にとって音楽は感動をもたらしてくれる存在であり、ピアノは素晴らしく魅力的な楽器だからです。
そして、本当にピアノを弾きたいと願う人を導くことがピアノの先生である私の仕事だと思っています。
・・・こうして、アレクサンダーテクニークとクラシックバレエのレッスンと瞑想や禅の思想によって、これらの問題を克服し、再び弾けるようになるかと思いきや・・・
まさか、もう一度暗黒時代を経験することになります。
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