6/26浜離宮朝日ホールのリサイタル翌々日で、
6/30大阪シンフォニーホールの前々日、
6/28にファツィオリジャパン株式会社ショールームで開催されたヴァディム・ホロデンコの公開レッスンを聴講しました。
作為のない自然さ、
まるで拡大し続ける宇宙のような広がり、
心の底まで届く美しい響き・・・
ホロデンコの演奏の秘密はどこにあるのだろうと興味津々でしたが、彼の演奏に感じていたことと彼が“重要”だと語ったことが一致していて納得しました。
キーワードは《論理》と《客観》
ホロデンコの演奏を聴く時に私が感じ、強く惹かれるのは、作為のない”自然さ”です。
「あー弾こう」とか、「こー弾こう」とか、そういう私的な意図は彼の演奏からは感じられません。
良い意味で”自我”がないというか、”エゴ”を排しているからこそ、作品が持つ世界がこれ以上望めないほどにシンプルかつ美しく実現され、聴く人の心に真っ直ぐに届き、イマジネーションを掻き立てられます。
彼自身こう語りました。
この作品の魅力は、作品自体が語っているので、特に何もしない(ロマンティックに歌おうとしない)方がインパクトがある。
― J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻より第4番 ―
作品自体が非常によく描かれているので、自分の色に染めようとかああしようとか思って弾くべきではないと思う。
― ショパンのピアノソナタ第2番 ―
作品の魅力を”何もしないで”表現するために、どうしたらよいのか。
彼のこの言葉に集約されます。
(ショパン ピアノソナタ第2番は)感情的になりやすい作品ですが、客観的に弾くための練習として、ピアノを弾かないで、指揮をしているつもりで“論理”を考えるとよい。この練習はとても有効なのでぜひやって欲しい。
「なぜ、ここで、これが・・・?」
というように、曲の構成、論理、背景を考えるのです。
これは電車の中でも、飛行機の中でもどこでもできます、是非やって欲しい。
表面的な気分で弾いてはいけない。
作品の論理を自分で理解し、客観的に表現してこそ、作品の持つ世界が実現される、演奏とはそういうものだということです。
・・・ということは、あるレベル以上のピアノ弾きならみんなわかっていて、やっているはずです。
それを、ここまでやるのか?!というところまでホロデンコはやっていることが伺われました。しかも、ごく自然に、当たり前に、とても楽しそうに・・・です。
洗練されたタッチが上質の演奏を実現する
「あーしよう」とか「こーしよう」とかいう作為を排し、”何もしないで”作品の持つ素晴らしい世界を実現するのは、やはり洗練された美しい響きであり、それを生み出すタッチです。
それは、良い素材を選ぶからこそよい料理が出来るのに似ています。
ホロデンコが優勝した仙台国際コンクールの審査委員長野島稔氏も絶賛するように、彼の音はとにかく美しい。力みがなく、のびやかで、輝かしく、色彩豊かです。
この日の公開レッスンでは、至近距離で彼が演奏するところを見ることができましたが、無駄な力も無駄な動きも一切なく、ふさわしい音を奏でるためにハンマーが弦を叩く必要十分な動きを実現するためだけに指は鍵盤を操作するという雰囲気でした。
ピアニストならピアノの音が鳴るメカニズムは知っているので、誰でもそうしているはずなのですが、ホロデンコの場合、それがふつーじゃないレベルに見えます。指が鍵盤の底に到達する瞬間には動きが止まっている、というか、底に指がついていないのではないとさえ思えます。
(ダイナミックレンジの)pはもちろん、fになっても、ffになっても、底についていないように見え、それがあの、”ここ”ではなく”彼方”で鳴り響いているような響き、質量を感じさせない音が生まれるところを至近距離で見て、その洗練されたタッチに驚愕しました。
ファツィオリジャパン株式会社ショールーム入口、不思議な国への扉を開ける気分で入ります。
レッスン覚え書き
この日の受講生は、20歳過ぎの男性2人、2000年生まれの女性1人の計3人。既に活躍していて名前を知られた実力者たち。
ホロデンコは、彼らをピアニストとしてリスペクトしつつ、今後のために心に留めて考えて欲しいことを絞ってアドバイスしていました。
以下は覚え書です。
J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻より第4番
J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻より第4番で、最初に触れられたのは、ダイナミックレンジでした。
”ファツィオリはダイナミックレンジが広いので、つい幅広いダイナミックレンジで演奏したくなる気持ちもわかるけれど・・・”と前置きして、彼はこう語りました。
バッハの時代の楽器はもっと色彩感がなく、暗い響きだった。
だからと言って、当時の楽器のように弾くべきということではないが、しかし、色彩感を抑え、グラデーションレベルを抑えることで逆に面白くなる。たとえば、16、17世紀のオランダの絵画は暗いけれど、その後のロマン派や印象派の時代の絵画よりも表情が豊かである。
プレリュードは、リリカルに弾くとショパンのようになってしまう。リリカルに弾くときれいではあるけれどこの作品ではなくなってしまう。
たとえば、メロディーをリリカルに出すのではなく、当時のダンスのように弾いてみる。ダンスは必ずしもハッピーではない、スローで落ち着いたダンスもある。
1拍目が無造作にならないように、強く弾くというより、弦楽器のボーイングのニュアンスのように繊細に、そして1、2、3・・・のステップを踏むように、(4分の)6拍子なので、3拍目で止まらないで次へ続ける・・・
そう語りながらのホロデンコの演奏は、バロックダンスのステップを踏む時の身体の動きと同種のものが(かすかにですが)確かにありました。
続くフーガについて。
テーマは宗教的で、バッハにとって聖書は大事なものではあるが、それは特別なものというより日常的なものであることを考えるとこの作品は”悠久”なるもの、ひとつの流れとして弾かれる、たとえば、”Subito p”のような表現は、この曲のスタイルには合わない。
テーマが前に出過ぎて全体が見えないことがあるので、全体として弾くように。また、色んな音符があるけれど、整理して構造を明確に弾きたい。たとえば、
- 全音符:Stay
- 2分音符・4分音符:Step
- 8分音符:Run
Stay-Step-Runと語りながら彼が弾いたフーガは、一糸乱れぬコールドとパ・ド・ドゥの調和を見るようでした。
ブラームス 自作主題による変奏曲 D-dur Op.21-1
平均律に時間をとったため、ブラームスは10分ほどのレッスンでしたが、私のこれまでのブラームスのイメージが覆えすに十分なものでした。
ブラームスが広く誤解されているのは、あの肖像画に大きな原因があると思う。大きな身体に、いかめしくヒゲを蓄えた顔に受けるイメージから、強く弾かなければならないと思われているが、本来もっと軽やかに弾かれるべき。
個人的な話ですが、私がブラームスの室内楽は好きでも、ピアノ曲にあまり魅力を感じないのは、重くて暗いからです。そう演奏するように教えられたというのもあるし、そういう演奏が巷にあふれています。
そして、これはブラームスだけではありません。
シューベルト、ラフマニノフ・・・
誤解されている作曲家、沢山いるんですよね。。。
《構成》について語った言葉です。
テーマで自分を全開にして見せるようなことはしない。
クライマックスがその後にあることを忘れないで。劇と同じでクライマックスはひとつ!そこを演出するように。
どこがクライマックスなのか、そのクライマックスに向けてどうやって組み立てるのかは、前述のように指揮者になったつもりで考えるということにつながります。
ショパン ピアノソナタ 第2番Op.35
この公開レッスンの2日後にホロデンコの大阪シンフォニーホールでのリサイタルで弾くショパンの第2番のソナタは、とても興味深い話を聞くことができました。
そのまま紹介します。
この作品はとても主観的な作品で、自分の人生観を持って弾くべき。
4楽章の長いファンタジーのようだと思っている。
中核になるのは3楽章『葬送行進曲』だが、ベートーヴェンの12番の葬送ソナタのように、悲愴的である必要はない。
この3楽章の中間部はノクターンのように弾きがちだが、これはお葬式の行進。ロマンティックに弾くというのはない。
凍ったような、あるいは、閉じ込められたようであるべき。
第1楽章、冒頭4小節には重要なメッセージがあるが、拍節感(ビート)は大事。この4小節で一貫したテンポを保つのは大事。
冒頭の「Des⇒E」を聴衆に印象づけるように。
1楽章と2楽章のつながりは、マーラーの第6シンフォニーに似ている。
1楽章と2楽章のテンポのバランスが大事、1楽章は速すぎない方がいい。4楽章は鍵盤を風がなでるように。質量のない音は、重さをかけず指を必要最小限に動かす。
そう語って弾いた彼の”重さをかけない必要最小限の指の動き”は目を見張るようで、その響きは墓場を吹き抜ける風のようでした。
このソナタが悲劇的であることに異論を唱える人はいないと思いますが、興味深かったのは、「希望」という言葉で語られたもうひとつのテーマです。
1楽章はシェイクスピア『リア王』のように悲劇的。
クレイジーな音楽だが、エピソードは論理的である。
この作品には3つの”テーマ”がある。
1楽章の第2主題は、希望にあふれ、幸福感に満ちている。
2楽章の中間部は、希望が半分になってしまう。チャイコフスキー交響曲第6番『悲愴』の第2楽章のワルツに似ていて、踊っているワルツではなく、“かつてこんなワルツを聴いた”という記憶の中のワルツ。
第3楽章の中間部は、そこに生命はない。
この3つを一体として弾いていく。
・・・あふれていた希望が半分になり、そして、もはや生命がない・・・
淡々と語った彼の言葉に胸が締め付けられるようなものを感じました。
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 第1楽章
コンチェルトはどうやって演奏されるのかな?と思っていたら、テュッティ(オケパート)はホロデンコ自身が演奏!
とても贅沢な時間でした。
ホロデンコは”ミステリアス”という言葉をよく使います。
プロコフィエフの2番と5番のコンチェルトを録音しているホロデンコにとってのプロコフィエフもまたミステリアスな対象なようです。
プロコフィエフは率直で、明確で、頭がよくて、ロジカルな作曲家だが、楽譜を一見して思うほどにはクリアではない。私にとってミステリアスな作曲家です。
オーケストラと共演する際の注意事項として、こんなアドバイスがありました。
この曲の特徴は、オケとの協奏。単なる同奏ではない。
オケと一緒に流れていくというシーンがあるが、合わせるのは(オケではなく)ソリストの仕事。
数十人もいるオケに合わせろというのは無理な話。
指揮者が間違えることが時にあるので、たとえば、コントラバスのボーイングを見て合わせることもある。
16分音符が続く時に、リズム・テンポ感が失われないように。
コンチェルトでは、pとfを大げさなほどに明確にしないとわからない。
p、mp、mf、fのダイナミックグラデーションをはっきり!とにかく耳をオープンにして聴くことが肝要。
プロコフィエフ 4つの練習曲 Op.2-1
プロコフィエフのコンチェルトも練習曲も、全ての音を練習曲、特にハノンのように弾くべきではないということを繰りかえしていました。
プロコフィエフとラフマニノフの違いとして、こう語りました。
プロコフィエフの本質はアイロニカル、残酷なほどに”皮肉”なのでラフマニノフのように弾くべきではない。
特にこの曲は、超滑稽。
プロコフィエフがスタカートを描いた時には、本当にスタカート。ペダルはできるだけ使わず、特に最後はペダルなしで。
先ほどささやくような響きでショパンを弾いた同じ指が、悪魔が笑うような乾いた響きでプロコフィエフを弾くのをあっけにとられる想いで聴きました。
得意・不得意がないのは”神”の眼差しゆえ?!
作為のない自然な演奏、
自然だからこそ豊かに広がる音楽、
極めて美しく色彩豊かで柔らかく豊かな響き・・・
ホロデンコの演奏の魅力とともに、私が不思議に思うのは、彼に得意・不得意がないことです。
ふつー、一夜のリサイタルでも、出来不出来があるし、得意・不得意みたいなのが現れるものですが、ホロデンコには驚くほどそれがありません。
「今晩の白眉は・・・」みたいな文脈で語られる場合も、たいてい、作品の持つ内容の深さやテーマの重大さと密接に関係していることが多かったり、聴き手の好みの問題だったりで、ホロデンコの得意・不得意や調子の良し悪しとは別問題であることがほとんどです。
チャイコフスキー、メトネル、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ストラヴィンスキーと・・・ひと口にロシア人作曲家と言っても、極めてユニークで、ふつーは好みがわかれたり、共感度がそれぞれなら、得意・不得意が分かれるものです。
この日のレッスンを聴いていて、ホロデンコが作曲家を語る時、それは、大作曲家への畏敬の念というより、まるで、愛しい我が子へ注がれる眼差しに近いものを感じました。
”神”の眼差しと言ってもいいかもしれません。
ラフマニノフやプロコフィエフを”ミステリアス”と語る彼は、わからないものはわからないままに尊重しつつ、その不思議さをそのまま表現することができる・・・
これは凄いことです。
響きの美しさは、その気になれば磨くこともできるでしょう。
作品の論理を理解し、客観的な視点で演奏することもトレーニング次第で上達できます。
けれど、好き嫌いなく等しく作曲家と作品へ愛を注ぐことができるこの態度・姿勢こそが、彼のとてつもない才能の秘密かもしれません。
この2台のファツィオリでレッスンが行われました。
ヴァディム・ホロデンコ 公開レッスン プログラム
ヴァディム・ホロデンコ 公開レッスンプログラム
第1セッション
J.S.バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻より第4番
ブラームス 自作主題による変奏曲ニ長調
第2セッション
ショパン ピアノソナタ 第2番
第3セッション
プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番より第1楽章、4つの練習曲作品2
【日時】2018年6月28日 17時~20時
【場所】ファツィオリジャパン株式会社ショールーム
オリーブの樹でできたファツィオリ。