将棋棋士藤井聡太四段のデビュー以来25連勝で歴代単独2位、凄いですね~。
(2017年6月12日現在)
将棋は、駒の動かし方しか知らない私ですが、中学生とは思えない泰然自若とした態度には歴史に名を残す大器であることを感じます。
目下、世間の注目は、このまま最短最速で今年中にタイトルを手にするのではないかということ。
それにも増して関心が集まるのは、”誰が”藤井四段の連勝をストップさせるかということでしょう。
そんな中で昨日(6/11)放映されたある民放テレビ番組で、26連勝から28連勝に向けての対局相手を紹介していました。その中に瀬川晶司五段の名前を見つけひらめいたのでした。
「あっ、瀬川五段が藤井四段に勝つかも・・・」
根拠なんか何もありません。ただ、藤井四段のいかにも勝負師らしい鋭い雰囲気にはまともに向かってバチバチ火花を散らすよりも、瀬川五段のほんわかマイペースな、のらりくらりな感じが意外にいけるのではないかと直感しただけです。
解説の女流棋士が何とコメントするのか楽しみにしていたら、瀬川五段にはひと言も触れず、その次の27連勝がかかるアマチュア(学生名人)である東大1年生の藤岡隼太氏とその次の28連勝(歴代トップ対)がかかる澤田真吾六段の話しかしません。
え~、瀬川五段(一時は)あんなに騒がれたのに、スルーなんだ~。
もう一度断っておきますが、私は、将棋は駒の動かし方知っているレベルのド素人です。
瀬川五段の名前を知っているのは、”2005年に将棋界で61年ぶりとなるプロ編入試験6番勝負を戦った棋士”であり、将棋のプロ棋士になるための奨励会システムに風穴をあけた人物としてであり、2005年から2010年頃、時の人として色んなメディアに登場し、本も出版されたからです。
瀬川五段のようなミラクルな人は希望です。
またミラクルを起こすのではないかと期待させてくれます。藤井四段の連勝にストップをかけるというドラマにふさわしいじゃないですか。
そんなミラクルがあったら面白いでしょう。
メディアにスルーされてしまった瀬川五段ですが、実は私にとって密かに人生の恩人と思っている存在です。
もちろん、お会いしたことはありません、私が一方的に感謝しているだけです。
藤井四段との対局の前に、私にとっての瀬川五段を綴ってみたくなりました。
夢を追いかけ、そして絶望するということ
瀬川五段がなぜ私にとって恩人なのか。
そのためには、まず私自身のことを語らなければなりません。
私は子供の頃から、ピアノ好きで、中学2年の時に「よいピアノの先生になる!」と決意し、その通りに学生時代から教え始め、演奏活動もして、夢を叶えたはずでした。
けれど、現実にはやりたいことと仕事としてのニーズに悩み続け、夢と現実の間でもがいていました。
アガリに悩んだ日々
でも、本当に深刻な悩みは、私の内側にありました。
いわゆる「アガリ」です。
私はピアノが好きで弾き始めました。だから練習を嫌だと思ったことはないし、ピアノを弾くのは最高に楽しいことでした。
けれど、高校時代にとても厳しい先生に師事し、震えあがるほど怖いレッスンが続くうちに人前で弾くときに手が震えるようになってしまいました。(振戦と言います)
「緊張しても自信があればあがらない」「アガリ症なら、人の倍練習しなさい」と言われ、とにかく練習したけれど、一向に改善せず、ず~~~っと悩み続けました。
ピアノを弾く時だけ緊張して震えるってつまり才能がない
私にとって、「アガリ」が深刻だったのは、キャラ的に「あがるように見えない」ということがあります。
実際、ピアノ以外のシチュエーションではほとんどあがりません。
試験なんか大好きで、試験本番じゃないとテンション上がらないとか・・・
いきなりスピーチを頼まれても、ふたつ返事で求められるレベルはクリアしますし・・・
土壇場みたいな場面は得意で、とにかく普段は緊張のあまり失敗するということはありません。
だから、私があがって手が震えると言っても誰も信じてくれませんでした。
これ以上1分だって練習時間を増やせないというくらいに頑張っていた長い時期もあるのですが、そんな風に見えないというキャラのせいで誰にも私の悩みは理解されませんでした。
普段あがらないのに、ピアノを弾く時だけあがって手が震えて弾けないということは、才能がないということになります。
そうだと思います。残念ながら私は年間数十回以上の本番を抱えるピアニストになるような才能には恵まれませんでした。
でも、自分の好きな曲を弾きたいように(思い描くレベルで)弾くことは、練習すればできるのではないか、そう信じていました。
だって弾きたいのですから・・・
そこにピアノがあって、弾きたい作品があって、だから弾きたい。
なのに、人前で弾こうとすると手が震えて弾けなくなってしまう・・・
もちろん、アガリに効く方法を色々と試したし、役立ちそうなレッスンにも色々通いました。
色んなことをやれば、それなりに一定の効果はありました。でも、決定的なところまでは至りません。
万策尽きてピアノを手放そうと決意した
暗中模索を続ける2010年3月の終わり、家で練習している時にはかなり手応えを感じ、上手く行くのではないかとポジティブに臨んだ演奏が目も当てられないほどぐちゃぐちゃになってしまい、さすがに凹みました。
万策尽きるというのはこのこと・・・
こんなに色々試してもダメなら、もうピアノに1秒だって時間をかけるのは無駄なんじゃないか。
この時、生まれてはじめて、本気でピアノを弾くのをやめよう、ピアノを手放そう、ピアノを売り払ってしまおうと思いました。
・・・そう思いながらも数日後、事前にチケットを予約していたあるピアノ講座を聴きに行きました。ピアノを弾くのはやめても聴くのをやめることはないし、やっぱり私は音楽が好きなのです。
ステージの上でピアニストが演奏しながらレクチャーするのを薄暗い客席で聴きながら思ったのでした。
あのステージの上でライトを浴びるのはほんの一握りの人。
大多数は、この薄暗い客席で拍手を贈る人々なんだ。
薄暗い客席で拍手を贈る圧倒的大多数の人々が、ステージの上でライトを浴びるほんの一握りの人々を支えていて、私はそちら側の人間なんだ。それでもいいじゃないか。。。
その日、空気は開花したばかりの桜が凍るように冷たく、その冷たい空気を感じながら、私の決意は固まっていました。
もう、ピアノを弾くのはやめよう。ピアノは手放そう。。。
夢をあきらめたその日に届いた「夢をあきらめない」
すっかり心の整理がついてサバサバしていた時、この本が私のもとにやってきました。
私が瀬川五段のニュースにエキサイトしていることを知っていたある人からでした。
表紙をめくると・・・
この時の驚きを何と表現したらいいでしょう。
時間が止まったというか、頭の中が真っ白になったというか・・・
何が起こっているのかわからないけれど、何かが起こっている・・・
夢をあきらめたその日に届いた「夢をあきらめない」。
気を取り直して、どうやってこの本に為書きしてもらったの尋ねると、間に何人かの方を介していて、ほとんど奇跡的な巡りあわせで私はこの本を手にしたことが何となくわかりました。
人は打ち砕かれて初めて謙虚になれる
瀬川五段の将棋との出会いや奨励会時代、そして、プロになる道のりはそれまでにもテレビ番組その他で何となく知ってはいましたが、この時はそのひと言ひと言が他人事ではありませんでした。
私は、子供の頃から滅多に泣かなかったし、涙腺は難攻不落のつもりですが、白状しましょう。この時だけはほとんど号泣しました。これまでの人生で一番の大洪水。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」という言葉がありますが、涙ってそんな単純なものばかりではないですよね。
一生に一度くらい、ノアの洪水のごとく、色んなものが流れて行く時だってあるんじゃないでしょうか。
・・・で、雷雨の後には虹が見えるというお決まりのパターンじゃないですけれど、ふと思い出したのです。数日前に美容院で見た雑誌の新刊紹介を。。。
それは、小池龍之介著『考えない練習』でした。
蜘蛛の糸を見つけたとはこういうことでしょう。
万策尽きたと思っていたけれど、まだ出来ることがある・・・
すぐに『考えない練習』を手に入れ、読み、そこに書かれている内容を試しました。
今になって、当時を振り返って思うのですが・・・
打ち砕かれるというか、絶望する瞬間というか・・・
そういう体験が人生に何度か、少なくとも1度は必要なんじゃないかと思います。
自分の限界を知ってはじめて謙虚になれるし、未知なる領域に入っていくこともできるような気がします。
この本にはじまるその後の展開は長くなるので省略しますが、今の私があるのはこの時の『考えない練習』にはじまった禅の思想との出会いのおかげです。
そのきっかけになったのは瀬川五段の
夢をあきらめない
の言葉が入ったあの本のおかげです。
自分を信じるということ
藤井聡太四段の6/15の対局相手として瀬川五段のお名前を拝見したことで、『完全版 泣き虫しょったんの奇跡』を思い出し、何年ぶりかに読み返してみました。
人と違う、それが自分という存在
あらためて思ったのは、
自分を信じることの大切さ
です。
たとえば、アマがA級八段に買ったとしてニュースになった久保八段との対局のときの様子にこういうのがあります。
・・・優劣不明の中盤戦、次の手を考えていた僕はふと、とても奇妙な一手を思いついた。それはとても素朴な、というよりむしろ素人くさい手だった。
将棋に精通していればいるほど、ありえないと一笑に付すような手だった。奨励会時代の僕なら、たとえ思いついても指せなかっただろう。だが局面を見れば見るほど、その手しかないように思えてくる。
僕がここまで来たのは、指したい手を指してきたからじゃないか。
その手を指して負けるよりも、指さないで負けたときの後悔の方が大きいと思った。・・・
この一手で形勢をリードし、瀬川五段は勝利を手にしますが、自分を信じて、自分の指したい手を指したからこその勝利です。
囲碁も将棋も、スポーツも、もちろん音楽も・・・達人は、みんな似たようなことを言っているのですよね。
人が考えないようなことを思いついたりするのは、それこそ自分だということ。それを押し込めてしまうのは、自分を否定するのと同じなのです。
誰も考えないようなこと、誰もやらないようなことでも、自分にとって「是」であるなら、信じて行くべきだということを教えてくれます。
強さも上手さも感動も一通りではない
もうひとつ、思ったのは、道はひとつではないということ。
瀬川五段のことばにこういうのがあります。
もしかしたら、将棋の強さとは一通りではないのかもしれない・・・
将棋の強さは、演奏の上手さに例えられるとしたら、強さも上手さも、そして、感動も一通りではないと言えます。
プロセスが違えば結果が違うと言いますが、常識と違っても自分が信じるところがあるなら、それに従っていくべきなんじゃないかとあらためて思います。
最後に、ずっと瀬川五段にお礼を言いたかったのです
ということで、藤井聡太四段の対局相手に瀬川晶司五段のお名前を見つけたことで、忘却の彼方にあった色んなことを思い出しました。
本当は、2010年当時に瀬川五段にお礼を言いたかったのです。
でも何と言えばいいのか・・・手紙を書こうかとも思ったけれど、沢山のファンレターなどを受け取っていらっしゃってお忙しい中、わけわからないことを書いて送るのは迷惑なだけじゃないか、そもそも、書きたいことを伝わるように書けるのだろうか、そんなことを考えたら、まったく書けず、いつの間にか忘れてしまっていました。
今も、お礼を言いたい気持ちと、そんなもの一方的に伝えられても迷惑なだけだからやめろという気持ちが複雑に絡み合っています。
それでもこの記事を書いてアップしたのは、感謝の気持ちを世界に送りだすことは「善」だと思うからです。
だって、世界は与える循環で成り立っているのですから・・・
そして、日本中が注目している藤井聡太四段との対局に臨む瀬川五段へ贈ります。
夢をあきらめない。
勇気ある者に世界は優しいです。