GW恒例ラ・フォル・ジュルネの楽しみは、コンサートだけではありません。
私は、有料公演に出演するアーティストたちが講師を務めるマスタークラスを毎年楽しみに聴講しています。
マスタークラスとは、聴衆に公開されるレッスンで「公開レッスン」と呼ばれることもあります。
マスタークラスは、一流アーティストが何を考えて演奏しているのか、生の声を聴くことができる貴重な機会。
今年2018年は2人のピアニストのクラスを聴講しました。
とても興味深いマスタークラスの聴講レポです。
ユニークな2人の講師コロベイニコフとペレス
ラ・フォル・ジュルネのマスタークラスは、有料公演に出演するアーティストたちが講師を勤めます。
1日に5クラス×3日間=計15クラス開催され、そのうち、ピアノが9クラスです。
日本のピアノ人口がいかに多いかですね。
私は、アンドレイ・コロベイニコフとルイス・フェルナンド・ペレスのクラスを聴講しました。
まず、簡単に講師を紹介しましょう。
多才で学者肌のアンドレイ・コロベイニコフ
アンドレイ・コロベイニコフ( Andrei Korobeinikov)は、1986年モスクワ生まれ。
5歳でピアノを始め、7歳で第3回チャイコフスキー記念青少年音楽コンクール優勝。
2001年に15歳でモスクワ音楽院入学、アンドレイ・ディエフに師事し、19歳で卒業。
2004年第3回スクリャービン国際コンクール優勝、2005年第2回ラフマニノフ国際コンクール第2位など、国内外のコンクールで入賞し、世界各地の主要オーケストラとの共演や音楽祭への出演など10代から活躍、日本への度々来日していてファンも多い・・・
というのは、凄いけれどまあ国際的に活躍しているピアニストとしてはふつー。
コロベイニコフが凄いのは、ピアニストとして精力的にキャリアを積みながら、司法試験に合格していて、教鞭をとったり、さらに大学院で研究したりしていることです。
語学も堪能で、母国語のロシア語の他に英語とイタリア語はまだふつーとしても、さらにエスペラント語を話すというのですから、もう驚くしかありません。
スペイン音楽の継承者ルイス・フェルナンド・ペレス
ルイス・フェルナンド・ペレスは、1977年スペイン・マドリッド生まれ。
スペインのポズエロ・デ・アラルカン音楽院とレイナ・ソフィア・シニア音楽学校で学んだ後、ケルン音楽大学でピエール=ロラン・エマールに師事。
アリシア・デ・ラローチャやカルメン・ブラヴォ・モンポウらのもとでも研鑽を積み、グラナドス・コンクールでのグラナドス・ベスト・パフォーマー特別賞を受賞。
アルベニスの《イベリア》《ナバーラ》の録音によりアルベニス・メダルを授与・・・
と、スペイン音楽の継承者として期待を背負っています。
・・・と同時に、聴衆としてのペレスの魅力は、『よしもと』でも活躍できそうな芸達者ぶりにあります。身振り手振りに面白い例えが満載のレッスンに、思わず笑いがこぼれ、最後には爆笑の渦でした。
ピアノに触れて音を出す前に大切なことがある
さて、曲目は、意図したわけではないのですが、偶然にも2人ともリストでした。
コロベイニコフがベッリーニ=リスト:ノルマの回想 S.394。
ペレスが、リスト ハンガリアン狂詩曲第13番
受講生2人は、ハイティーンの才能豊かなピアニスト。こういう所に出てくるのですから、当然のようによ~く練習しています。
・・・で、最初に通して弾いてその労をねぎらった後に始まるのが、作品の背景についてのレクチャーです。
リリカルでありドラマティックな『ノルマ』
『ノルマの回想』はベッリーニのオペラ『ノルマ』のリストによるパラフレーズですが、そもそも『ノルマ』というオペラが何かというと、舞台は紀元前50年頃のローマで、巫女であるノルマは禁断の恋の末、2人の子供をもうけてしまい、しかも、相手の男とは自分よりはるかに若い巫女に心変わりし三角関係の修羅場が・・・というドロドロした話。
この三角関係が大問題なのは、ノルマはただの巫女ではなく、種族の長であることです。戦争が起きれば先頭に立って種族を鼓舞しなければならない立場にあるノルマには、種族に対しての責任と子供に対する責任があります。
社会的責任や倫理と自分の気持ちや愛との葛藤に生きるノルマという”役”は、オペラではリリカルソプラノとドラマティックソプラノの両面を持っています。コロベイニコフ曰く、
マリア・カラスは最初の一音からリリカルだけれどドラマティックだった。
日本の映画や歌舞伎でもそういう女性が描かれているが、日本人は内側に隠して表に出さない傾向があるが、もっと表に出していい、ワイルドに表現するべき。
今、演奏しているフレーズは、リリカルなのかドラマティックなのかが曖昧だと説得力がなくなり、作品を表現できない・・・ということをシーンに合わせて指摘していました。
ハンガリーはジプシー抜きでは語れない
ペレスがレッスンしたハンガリー狂詩曲では、ハンガリーの精神という話が始まりました。
ハンガリーはジプシーと切り離すことはできないし、ジプシーと言えば、ツィンバロンです(ジプシーは、最近ではロマと呼びますが、ここではあえてペレスの言葉に従います)。
ペレスいわく、
ジプシーは、欲深くてずる賢くて残忍だと思われるふしがありますが、実は、とても自由で豊かな心を持っているのです。
ラプソディ(狂詩曲)というのは、火山が自分の内側にあるような”精神”なのです。
ジプシーはハンガリー軍隊のために演奏したり踊ったりしましたが、その音楽や踊りはとても独特で個性的です。
このことを忘れて、あまりにロマンチックに弾いてしまうと、ハンガリーというよりショパン的になってしまう・・・
大きなジェスチャーをまじえながらのこれらの話を聞いていて思ったのは、農耕民族を祖先とする日本人の私たちには、ジプシーの精神というのは非常にわかりにくいということです。
それを補うには、イマジネーションしかないですね。。。
演奏の方向性あっての解釈であり個性
楽器を演奏する人は、楽譜を読んで、その意味するところを読み取り解釈して演奏するのですが・・・
2人のレッスンを聞いていて思ったのは、
解釈というのは、一般に考えられているよりもずっと狭いところから入って奥深くに広がるもの
ということでした。
具体的にいうと・・・
『ノルマの回想』なら、ノルマのアリアの旋律はリリカルソプラノとドラマティックソプラノを併せ持ったキャラで演奏されるべきという方向性が決まっていますし、
ハンガリー狂詩曲なら、ジプシーの音楽という特徴を無視するわけにはいきません。
そういう大きな方向性は、いわばコンパスのようなもの。
個性や解釈というものは、その方向を無視して好き勝手に何でもやっていいということではないのですよね。
”制限があるからこそクリエイティブになる”、ストラヴィンスキーの言葉を思い出しました。
オーケストラ作品の編曲を弾く時に知っておきたいこと
作品が描いている方向性とかコンセプトを理解した上で、ピアノで演奏するテクニックの話になります。
リストの作品には、オペラなどピアノ以外の作品の編曲が沢山あります。『ノルマの回想』もそうですし、『リゴレットパラフレーズ』や『イゾルデの愛と死』のような人気作品を演奏する時の指針としてこんなことを語っていました。
こういうオーケストラ作品は、自分の中にピアニスト的な部分と指揮者的部分の両方が必要。
偉大な指揮者は肝心なところだけを合わせ、決して「1、2、3・・・」みたいには振らない。
ヴァイオリニストのヤンケレビッチはパガニーニのカプリースについて”どんなに難しいパッセージでも大事なのは最初と最後”と言ったが、これはリストにも使える(ショパンは違う)。
オーケストラでも、書かれている音を全部弾こうとするのは馬鹿げている。弾かなければならないことはわかっているが無理!
もちろん全部練習しなければならない。
しかし、全部弾くことばかりに専念するのではなく、大事なのは最初と最後だけ。
フルトベングラーなど昔の偉大な指揮者、ミュンシュのリハーサル風景を見ると色んなことがわかる・・・
参考にしてください。。。
ピアノは私たちを待っているようにそこにいる
ペレスのマスタークラスは、以前にも聞いたことがありますが、2回を通じて感じたのは、タッチの繊細さです。
ピアノの鍵盤に(指を)押し付けない。
と繰り返し言っていましたが、この受講生は決して乱暴には弾いていませんでした。
最初にそう言った時に、思わず
へっ?!
と思ったほどです。
ペレス曰く、
ピアノは私たちを待っているようにそこにいるのです。
鍵盤を真下に押し付けないで、腕の力を抜いて自由に。。。
レジェロは、指の腹全部を使い、指の付け根は軽やかに。
いい音色のフォルテは、鍵盤をギュっと押すのではなく、鷲が翼を広げるように背中の肩甲骨の二つの筋肉を開いて前に出す感じにするとリラックスしているのにパワーが出るのです。
決してピアノを叩かないで。。。
ピアノという楽器は、ハンマーが弦を叩くのであって、演奏する人が鍵盤を叩くのではないのですよね。
・・・言うは易く行うは難し、です。
まとめ
ピアノを弾くというと、とにかく指を動かすことに関心が集まりますが・・・
コロベイニコフとペレスのマスタークラスを通じて、指を動かす以前に音楽的教養がいかに大切かを痛感しました。
そもそも、ひとつの音をどう弾くかは、作品の背景や音楽の原則が示しているのです。
それを知らずにピアノと格闘しても、決していい演奏にはたどり着かないのですから、王道を行きたいものです。。。
エル=バシャのプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番とともに、ピアノ熱をぐっと上げてくれたコロベイニコフとペレスのマスタークラスでした。
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